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3月12日16:5分、母死す。

2019年3月12日16時5分、母死す。93歳でした。

ここ1・2年はほとんど外出もできず、昨年12月に入院して約3ヶ月間は話しても答えられない眠ったような状態でした。もう、死の知らせを待つだけでした。だから覚悟もできていて、実際にその知らせを受けた時も悲しいといった感じはありませんでした。

ただただ親孝行ができなかったという事実に、涙が流れました。
しかし、2019年7月に67歳になる自分、母より早く死ななかったことが唯一の親孝行だったのではないかと思っています。

なぜかというと、

私の兄の嫁さんは、10年前57歳の若さで実の母より早く死んでいました。嫁さんの告別式でも終始気丈にしていた嫁さんの母親、花を棺に入れる最後のお別れの時、

「ケイ子〜」

と娘の名を呼び、泣き崩れました。「親より早く死ぬことは、親不孝だな~」とつくづく思いました。

母の想い出

奉公人のように嫁いできた母には教養はありません。稼いだお金はほとんど家に入れていました。家の財布を握っていたのは祖母。母の話では、その祖母が死んだ時、財布にはほとんでお金がなかったということです。それほど、うちの父の家系は金銭感覚がないのです。

そんな中、母はほんの少しの小遣いを貯めていました。しかし、決して自分のためにお金を使うことはありませんでした。化粧もほとんどしません。貯めたお小遣いは、すべて近親者のために使ってしまいます。

福島の母の実家が借金で困っている時、母はその借金を全部返済しました。母の母(祖母)はじめ母の実家の家族はとても母に感謝したそうです。

「母さん、その時はほんとスッキリした~」

と、笑みを浮かべて言っていた母。本当に嬉しそうでした。

そして、死ぬ準備のためです。子供である私たちにお金を分配した上、母は自分の葬式の準備金も300万用意しました。おまけに、我々子供出すべき香典代まで用意してくれていたのです。

また、母は2泊3日の親族旅行の費用を2回出してくれました。参加者は20人ほどで1回100万円ほどかかりました。富士山と日光方面のマイクロバスをチャーターしての旅行でした。

そんな時の母は、本当に楽しそうでした。富士山の時は、足があまりよくなく、白糸の滝へは降りられなかった母。バスの中でみんなが帰ってくるのをただ待っているだけした。みんなが楽しければいいという、そんな母には勝てないな~といつも思い知らされてきました。

3月15日10時、実家にて納棺の儀(手順)

3月15日10時、実家にて納棺の儀

私は今まで、納棺の儀に参加したことがありません。正確に言うと、父方の祖母と父の納棺はまだ家にいたので見ているはずですが、覚えていないのです。

今回の母の納棺は、最初から最後までしっかり見ていました。というより参加しました。葬儀屋さんの挨拶の後、

  1. 親族一人ひとりお線香をあげます。
  2. 業者の人が母の死化粧し、着させたい衣服を着させます。
    (以下、親族が役割分担して行います)
  3. 親族みんなで手や足を拭いてあげます。
  4. 両手の手首にミサンガのような紐を巻きます。
  5. 手に手甲、足に脚半、を覆うそれようの布をつけます。
  6. 足元に草履、左手にお金(シール)、右手の近くに杖をおきます。
    ※お金がシールなのは、火葬では燃えないものを入れてはいけないのだそうです。
  7. 最後に菅笠(すげがさ)を入れます。

まるで、お遍路さんの旅支度のようです。最後に親族が棺のふたを足の方からかぶせます。だいたい30分ぐらいかかりました。

3月19日、葬儀場へ出棺

自宅から葬式会場へ出棺する際、喪主(兄)が挨拶をしました。

「母は大正10年11月11日生まれです。満97歳の大往生です。みなさん、ご存知のように、母は人のため、家族のために生きてきました。そして、ここ数年はいつも

『早く死にたい、早く死にたい!』

と言っていました。やっと楽になれてよかったと思っています」

3月19日18時、お通夜

お通夜の挨拶は親族代表ということで、私がしました。基本的には兄の挨拶と同じようなことを話しました。病院の用務員をしていた母が退職して30年以上もたっていますから、組合の人とご近所の人ばかりですから、みなさんよく母を知っている方ばかりです。詳しい話をする必要はありません。

この夜は、葬式会場に泊まることにしました。

3月20日10時、告別式

昨日のお通夜でも親族を代表して、挨拶をしました。また、参加してくださった方々もほぼ同じでしたので、この告別式の挨拶もすることになった私は、きっと皆さんが知らない母のエピソードを1つ語るだけにしました。

ここに美しい小鳥が入っている鳥かごがありました。そして、母と母の弟の叔父さんがいました。

「きれいな小鳥だね」
叔父「ねえさん、これは作り物でオモチャなんだよ」
「へぇ~、最近のオモチャはよくできているんだね」

しばらくすると、そのオモチャの小鳥が鳴いたのです。

「へぇ~、最近のオモチャは鳴き声まで出すんだね~」
叔父「ねえさん、これは本物の鳥なんだよ」

確か50代のころの母のエピソードです。

教養があまりなく、たたただ家族のために働いてきた母、
子供みたいに純粋な心を持った母、

こんな母を自慢に思っていることと、こんな母には勝てないということを話しました。

3月20日母の告別式

3月20日12時、告別式最後のお別れ

参加者全員で入れたたくさんの花で満たされた棺の中の母。こんなにも女性らしく扱われたことは今まで一度もなかっただろうと思います。写真に残したいと思いましたが、写真をここで撮るのは不謹慎かな〜と思っていた時、兄の言葉が響きました。

「おふくろ、楽になれてよかったな〜」

実家でずっと、めんどうを見てきた兄。「早く死にたい」とずっと聞いていた兄。そんな兄の実感がいっぱいこの一言に込められていました。思わず、私の目から涙が流れてきました。

終わりに

後で、不謹慎でも花に囲まれた母の写真を撮っておけばよかったと悔いが残りました。あんなにいっぱいの花の中の母は、本当に可愛らしい女の子のようでした。