[第11講]不死—可能だとしたら

不死、「仮定」の話はもういいのです。

「不死」というと、どうしてすぐ「永遠の生」となるのでしょうか?
そして、「不死」になったら、次に「退屈」の問題が出てきます。永遠に生きていれば、なんでもやり尽くし、最後には何をしたら良いかわからなくなってしまう、といった流れです。

読んでいて、何回も「そういうことじゃない!」と心で叫んでいました。
別に「不死」になりたいわけじゃない!
早死したくないだけ、交通事故、病死で死にたくないだけ。そして、人に殺されたくないだけ……。

なのに、「不死」「永遠の生」「退屈」のもしも話が、[第11講]ではあ〜でもない、こうでもないと繰り返されます。

どうして、哲学には「仮定」の話が多いのでしょうか?

ここで、ギリシャ神話
【曙の女神エーオースとティトノス「不死」の落とし穴とセミの話】を取り上げます。哲学ではなく「神話」です。古代より「不死」の落とし穴は考えられていたのです。

曙の女神エーオースとティトノス

あなたは〈不死〉になりたいですか?
なれるとしても、〈もう1つのこと〉をけっして忘れないでください。

夜明けに太陽神アポローンの馬車の前を行くのは、金色の馬車に乗った曙の女神エーオース(オーロラ)。夜の闇を払い、夜明けを告げるのが女神の仕事です。

曙(あけぼの)の名から清く正しいイメージがありますが、地上に美青年を見つけるやいなや連れ去ってしまうという、じつは恋多き奔放な女神なのです。

エーオースは、愛の女神アフロディーテの愛人である軍神アレースと一夜をともにしました。怒ったアフロディーテは、彼女を年がら年中人間に恋をするようにしてしまったのです。

ある日、曙の女神エーオースは、トロイア王プリアモスの弟で美青年ティトノスを連れ去りました。しかし、ティトノスは人間、神に比べれば寿命は短くはかないものです。

「ティトノスと永遠に一緒にいたい!」
エーオースはゼウスにお願いして、ティトノスを〈不死〉にしてもらいました。やがて、エマティオンとメムノンという二人の息子が生まれ、二人は幸せに暮らしていました。

だが、ティトノスは〈不死〉であっても〈不老〉ではなかった!

ティトノスは〈不死〉であっても、どんどん老けてしまいました。
エーオースは老いていくティトノスを見るに耐えられなくなり、王宮の一室に閉じ込めてしまいました。今や、彼はひからびて小さくなり、手足も動かなくなり、細い声しか出せなくなってしまいました。
後悔したエーオースはティトノスに見切りをつけ、彼をセミに変えてしまいました。

(http://greek-myth.info/etc/Eos.html)

[第11講]不死—可能だとしたら、
あなたは「不死」を手に入れたいか?

『ガリバー旅行記』の不死の話

 これは、ジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』の見事な一節でやった思考実験の類いだ。住民の一部が永遠に生きる国をガリバーが訪れるところをスウィフトは想像している。彼らは不死だった。最初ガリバーは、

「ああ、これは素晴らしいではないか」

と言う。だが彼は、私たちが歳をとるにつれて実際に経験する種類の変化が積み重なり続ければ、人は歳をとるだけではなく、身体が弱り、不自由になっていくという事実について考えるのを忘れていた。不快なことがどんどん増え、すさまじい勢いで老衰が進む。彼らは永遠に生きられるのだが、やがて頭の働きが失われ、絶えず痛みに襲われ、身体はすっかり衰え、病に蝕まれているので何一つできない。これはおよそ素晴らしい状態ではない。もし不死とはそういうものならぞっとするとスウィフトは言う。
そして、モンテーニュもよく似たことを言い、死はじつは恵みだと主張する。老齢になった私たちが見舞われる痛みゃ苦しみ、惨めさに終止符を打ってくれるからだ。

映画『悪いことしましョ!』

 天国で何が起こるかと言えば、私たちは全員天使になり、永遠に賛美歌を歌って過ごすことになると想像してみよう。
(中略)
これと同じことをユーモラスに描いたのが映画『悪いことしましョ!』だ。この映画では、ある人間が悪魔と出会い、
「それで、どうしてお前は神に反逆したんだ?」
と問う。すると悪魔はこう答える。
「よし、教えてやろう。俺がここに座っているから、周りを踊ってまわりながら、『おお、神を称えよ、主はなんと素晴らしい! 主はなんと偉大なことか! 主はなんと輝かしいことか!』と唱えるんだ」
人間はしばらくそうしてから、「もう、うんざりだ。交代してくれないか?」
と不平を言う。すると、すかさず悪魔が答える。
「俺もまさにそう言ったのさ」

剥奪説の新しい考え方

やっと、シェリー先生も「不死」の話をやめて、こう結論しています。

 最善の形の人生は、たった50年か80年か100年で終わってしまう、今の私たちの人生でもない。けっきょく最善なのは、自分が望むだけ生きられることではないかと思う。

だが、ここで出てきた新しい考え方は、満足するまで、人生が提供しうる良いことをすべて手に入れるまで、生きられるのが良いだろうというものだ。
それならば、これらのいっさいが示唆しているのは(それは私がすでに指摘したことでもあるのだが)、剥奪説は私たちがいずれ死ぬのは悪いことだとしてはいないというのが、この説の最善の解釈であることだ。不死は望ましくなく、果てしない悪夢だろうと考えるのが正しければ、いずれ私たちが死ぬのはじつは良いことで、なぜならそれは、私たちが不死に直面しなくても済むことを保証するからだ。
だが、それにもかかわらず、私たちがやがて死ぬのは悪いことではないとしてさえ、今私たちが死ぬような年齢で死ぬのはやはり悪いことでありうる。私たちはあまりに早く死に過ぎるというのが、依然として真実でありうるのだ。

[第11講]不死——可能だとしたら 目次

あなたは「不死」を手に入れたいか?

不死こそが人間にとって最善なのか
「お先真っ暗」なら死は大歓迎に値する!?
長く生きるほど、人生は良くなるか
「不死」と「生き地獄」は紙一重!?
「永遠の生が手に入ったら、何をするか」の思考実験
永遠の命=永遠の退屈?
ただ快楽を得続けるような状況に置かれた場合
永遠の退屈を凌ぐために私たちができるこ
人間が抱える不死と退屈、人格のジレンマ
最善の「生」とは?